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− 思い出話 − |
今、改めて振り返ると、熱中して何かをした思い出は90〜93年あたりに集中している。BIMOTAに憧れ当時盛んだったシングルレーサーを造ったり、メーカーの開発試作車を製作したり、上手下手は別として物造りが楽しかった。92年にはイタリアへ2週間1人旅、BIMOTA社をリミニに訪れたりもした。BOTT始めシングルツインレースも仲間達と随分と楽しませてもらった。あの頃は、レース前になると何日も家にも帰らず風呂にも入らず、今思えば「よくやったなぁ〜」「やったよな」と、もはやオジさん同志で振り返って笑う。![]() 当時CORSAの公称出力は128PSであったが、実測すると120を少し超える位であった。順調にセットアップ練習を消化しエンジン等リビルトし本番を向える。スペアパーツは予算の都合で、転倒1度きりの分しか持てなかった。 当時のドゥカティワークスのチーム監督のレイモン・ロッシュ氏とはそれまで2度程会っており、面識はあった。サーキットホテルくぬぎ山荘で私達はロッシュ氏達と風呂やゲームを共にした。 ![]() 我がチームのヘルパーメカとして手伝ってくれた塩沢君は、足を引きずりながら自販機の前でジュースを欲しがるワークスライダーのファラッパに100円玉を差し出してあげた。大したスペアパーツを持たない私達は、事ある事にワークスチームのピットに駆け込みパーツを手に入れた。イヤな顔1つせずロッシュ氏は若いメカニックに指示し対応してくれた。嬉しかった。 公式練習予選日とピット内でのセットアップ作業は連日14時間、ピットのシャッターを開けるは1番、閉めるのは最後だった。新垣始め私も納得の出来るセットアップが実現した。練習含めて新垣のセットアップに、私も同一の方向性を感じ大満足であった。あとは決勝のグリッドに並べるだけだと、ところが、朝のウォーミングアップ中、1コーナー入口、失速しながら左足を上げる新垣、インベタ。トラブルだ。エンジン?電気?ピットからコーナーに私は駆け下りる。 ウォーミングアップラン終了を待ち、コースサイドからパドック裏急坂を押しあがりピットに入れる。何という事だ、片バンクのコンプレッションが全くない。一体どうして?(その原因は後日開けるとクローズドロッカーアーム折損、バルブ曲り、バルブガイド割れの状況から想像出来るのだが、ここでは書かない事にしよう。メカニックミスでないのは断言出来る。)状況判断が出来て、一瞬言葉を失う、終わったか! 待てよ、ワークスは無理としてもイタリアから遠征のサテライトチームはスペアエンジンを持っている。 ![]() いつの間にか、回りに取り囲む様に見物人の輪が出来る。時計を知らせる係りがあと何分あと何分と時間を読む、組上げ後半になると、私の作業を見守りながら、イタリアチームのメカニックがサッと工具を差し出してくれ、同じピットのオーバーレーシングデライトの健正さんはタイミング良くボルトを手渡してくれる。 その場でお礼を言う間もなく、とにかく作業をする。すでにコース上ではスタート前進行されているのが耳に入る。間に合うのか?エンジンに火を入れる。OK! カウルをボルト止めする時間がない。ガムテープを貼れ!出来た行くぞ!駆足。すでにその時には、グリッド上の選手紹介が始まっていた。入場ゲートオフィシャルは当然の様に手を横に広げ止まれと。あ〜ダメか、するとイタリア人と思われるオフィシャルが行っていいよとニコニコしながらゲートを開ける様に指示をする。第一ヒートを走れるんだ。グリッドに付けたマシンを持ちながら、私は気が付いた。フュエルタンクのクイックカプラーからガソリンが少し出ているではないか。でも誰にも伝えず声も発しなかった。私は新垣に言った「頼んだよ」新垣はただ「オゥ」と目をギラ付かせた。ついさっきまでバラバラだったCORSAを新垣は前半確認をするかの様に慎重にライディングし、第一ヒート11位というハプニングの大きさからすれば望外のポジションでフィニッシュした。 ![]() レース終了後、ロッシュ氏が私達のピットへやってきた。チョット来いと言うので、何事かと後ろを付いて行くと、ワークス御用達のAGIPレースガソリンのドラム缶をあげると言う。セッティングデータも教えてくれたのである。レース前に教えろよとは言えないね。 彼らも私達の入賞に大きな祝福をしてくれたのは言うまでもない。 そして最後に、ワールドスーパーバイクSUGOのチャレンジに対し、多くの方々の御協力、お力添え頂戴し、今となっても思い越し感謝しています。 |
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